森田雄三
プロフィール
1946年石川生まれ
演出家・二児の父・元サッシ屋・楽ちん堂守衛
著書:「間の取れる人、まぬけな人」「人生はなんとかなるものである」






1946年-1963年
石川平野のど真ん中、田んぼしかない集落に生まれる。
三歳にして初めて車を見る、そのトラックに向かって「バンザイ」をした記憶がある。金沢美術工芸大学に入学するが、翌年中退。
1964年
いよいよ憧れの東京へ。歩道橋、立体交差を初めて見る。足がすくむ。
西洋演劇専門の劇団「雲」に入る。芥川比呂志主演の「リヤ王」に台詞のない兵隊の役で出演。タイツ姿がおもはゆい。翌年クビ。
1965年-1970年
ほぼインチキの演劇学校「アクターズスタジオ」を手伝う。会計係。19才のイッセー尾形が、お金を握ってやってくる。
吉田日出子、串田和美らの「自由劇場」に誘われる。初戯曲「ボクシング悲歌」を演出。自由劇場連続公演のラインアップに加えてもらう。結婚し、結婚資金と女房の稼ぎをあてに、前衛劇をどんどん演出する。いい気になりすぎ、自由劇場のメンバーと対立。
1980年
芝居を最後にするつもりで、長男誕生の祝い金を使ってイッセー尾形の一人芝居を公演。
1986年ー1988年
骨肉腫で、左膝の骨を切断、除去。芝居のみで生活して行こうと焦る。
セゾン劇場で、山﨑努主演「マクベス」の演出をするが、上出来と喜んだのは自分一人。世の演劇とイッセー尾形と築いた我々の演劇の違いを認めざるを得ない。
1990年-1993年
新しい演劇を作ろうと「イッセー尾形プラスワンシアター」を試みる。ゲストは桃井かおりさん、小松正夫さん。「イッセー尾形都市生活カタログ」は地方公演に出かけるようになり、
NY、ベルリン、ロンドン、など海外をまわるようになる。
1994年ー2002年
近畿大学演劇科で講師として若い演劇人と接するようになる。神戸にて素人集団「アバンギャルズ」を設立。定期的に公演。日本大学芸術学部演劇科で、演劇を教える。
親戚宅を宿舎として金沢で「身体文学」を始める。新しい芝居を創ろうとし、もう自分勝手に必死のつもり。血圧が上がり、死にかける。骨肉腫手術後の足が化膿。次男の大学受験の日に足を切除。足のお葬式をする。
2005年ー2007年
公共事業「演出家森田さんのイッセー尾形ができるまで」と題し、地元の方と 4 日間で芝居を創り上げるワークショップを全国 八箇所で行う。
兵庫県高砂市の教師とワークショップで芝居を作り「センセーズ」が生まれる。18年にはスイス国立演劇学校(HMT)の教授となり、ワークショップに関する本が何冊も出版される。平成19年に森田雄三 「間のとれる人 間抜けな人」を執筆。「雄三語録」ブログを毎日かかさず書きはじめる
2009年
佐賀大学 講師に。焼き肉を食べ体調を崩し、病院で検査を受けると脳は高校生ですと言われ浮かれつつ、生きることに意欲を燃やしワークショップを行う。
日経新聞主催サラリーマンワークショップを開催。日経ホールで発表公演を行う。
2012年
まだ見ぬさゆり」と題した石川さゆりさんのコンサートを 20 代の「自分にはなんにも出来ない」と思っているスタッフと組んで演出する。
普通の人々と共につくるインターネットラジオドラマ局を開設。自由が丘の一坪ほどのフリースペースで「一坪屋」と名して人生相談をしながらワークショップを行う。
2013年
自宅兼稽古場を改装し、ワークショップ同様「誰でも受け入れる」をモットーに「楽ちん堂カフェ」をオープン。妻清子とともに、自宅を解放した子供の宿泊つき預かりを始める。スヤスヤ眠る子供たちの後ろで守衛さんをしながらブログの執筆を続け、雄三語録ブログ本「人生は、なんとかなるもんである」を PHP 研究所より発行。
2014年
富山にて一般の方とワークショップを通してお芝居を作り、スターダスト☆レビューの根本要さんを迎えた公演「富山のステキな人々 with 根本要」を演出。またリニューアルオープンした近鉄アート館のオープニングプログラムとして、現役の教員が学校生活を演じる「ステキな先生・ズ」に上田正樹さんを迎えた公演を演出。7月には「三陸国際芸術祭」に招かれ、東日本大震災後初の東北ワークショップを岩手県大船渡町にて開催。真っ暗な夜空の中に一筋の星を見上げるようなお芝居を現地の人々と作り上げ、希望を感じる。
2015年
二子玉川のビジネスビル、大阪は中崎町の古い印刷工場を改装した「AmanTo」でのアヴァンギャルズ20周年公演、恒例の神戸の劇場、山形の何百年続くお寺など、毎回全く違うカタチの場所でのワークショップに挑戦。2年目の三陸国際演劇祭では岩手県住吉町の山中に乗り込み「俺はイノシシとでもワークショップをするぞ!」と息巻く。
2016年
「身体文学」を楽ちん堂にて再開。フツーの人たちの本を出そう!と出版事業も始め、近所のおばあさんまでも原稿を持ってやってくるようになる。
10月には神戸にてテーマに阪神大震災、モチーフにモリエールの「守銭奴」を組み込んだ公演「ドケチのド愛」を上演。また年末には同作の完成版を東京にて稽古するも、大物関係者たちの注文をこなすうちに脳がはち切れて倒れ、本作は幻の作品となる。
2017年
2月9日 めずらしい東京の大雪の中「金沢みてぇだ」とはしゃいでいたら、今度は脳溢血にて本当に倒れる。倒れる寸前までフツーの人々の本を編集し最後の言葉は「おーコピー用紙もってきてよ」。医者から「あと3日」と言われるもまたしても生き返る。脳に障害が残り、身体障害&要介護5の生活が始まる。言葉や身体は不自由になりながらも、清子の通訳とともに訪れる人と相変わらず稽古をする。
2018年
10月
高熱を出し肺炎にて再度入院。医者に「今度はあと1週間です」と言われ、全国各地から多くの人が毎日のように訪れるも、そのまま3週間が経過。「雄三さん恒例の死ぬ死ぬ詐欺じゃねえの」とスタッフにゲラゲラ笑われ、毎日がお祭りのようになった楽ちん堂にて文字通り老若男女に囲まれ、29日永眠。
30日より、楽ちん堂にて3日間+後夜祭(火葬)の雄三フェスティバルを開催。2980円の無地の棺にみんなが絵や手紙を書き、火葬場の人がギョッとするも「世界で一番素敵な棺」と評判に。長男の「森田雄三千秋楽です!」の言葉と共に拍手の中とりあえずこの世からは旅立ち。
2019年
「森田雄三の仕事」を残そう!と全国のワークショッパーズ、スタッフともに決起。本拠地「楽ちん堂」での毎月の公演や本の制作などが進められる。なお、雄三の骨壺は楽ちん堂カフェにフツーに置かれ、いつも通り稽古を見つめている。



